「先生みたいに手のかかる作家さんが、果たして他の編集者の手に負(お)えるかどうかが心配で」「はあっ!?」 私は眉を跳ね上げた。〝心配〟ってそっちの意味かい! ……やっぱりこの人、Sだ。ドSだ!「しっ、失礼な! 私がいつあなたの手を煩(わずら)わせたっていうんですか!?」 私は猛(もう)抗議。頼まれた仕事は一度だって断ったことがないし、手書きだから遅筆(ちひつ)なのは仕方ないとしても、毎回キチンと入稿だってしているじゃないか! ――ところが。「じゃあ逆にお訊きしますけど、先生が僕の手を煩わせなかったことなんてありましたっけ?」「…………あーうー」 胸を張って「ある!」……とは言い切れない。思い当たるフシが多すぎて。 締め切りを延(の)ばしてもらったことは数知れず、催促されれば逆ギレして大ゲンカ。これらの所業(しょぎょう)の数々を、「手を煩わせた」と言わずして何と言うのか。「……ゴメンなさい。ないです」 猛省(もうせい)した私はうなだれた。……けれど。「――というのは冗談で、本当は僕以外の人に先生の原稿を任(まか)せたくなくて」「は?」 ……冗談だったんかい。時々私は、この人の思考回路が分からなくなる。「言ったでしょう? 僕は先生の小説が大好きだって。あんなおいしい役目、他の誰にも取られたくないですから」「……そうでしたね」 嬉しいけど、どうリアクションしていいのか。――「おいしい」って、「役得」って。彼がそれだけの理由でこんな大きな決断をしたとはどうしても思えなくて。「――それでですね、新レーベルは八月初旬(しょじゅん)に創刊予定なんですが。先生にはさっそく創刊第一号の執筆をお願いしたいんです」「創刊……第一号? って、私でいいんですか!?」 私は彼の依(い)頼(らい)の言葉を、すぐには理解できなかった。 新しいレーベルから刊行される第一作目を書く。それは作家にとって、一生に一度あるかないかの大仕事である。そして、その売れ行きによってレーベルの将来が決まるといっても過言(かごん)ではないため、任された側は責任重大だ。 そんな大役を、本当に私が……?「はい、もちろん。先生が一番の適任者だと僕は思ってます」「そうですか……」 何だかんだ言っても、彼は私を信頼してくれている。それなら、彼のためにぜひとも引き受けなきゃ!「
「――ところで、新しいレーベルについてもっと詳(くわ)しく聞かせてもらっていいですか? 創刊するに至(いた)った経緯(けいい)とか、レーベルのコンセプトとか」 彼のこれまでの説明から察するに、もうだいぶ前からこの計画(プラン)は煮詰(につ)まっていたんだと思う。「はい。――えーっとですね、実は僕、もう一年くらい前から新レーベルについては考えてたんです。その頃はまだ漠然(ばくぜん)と、でしかなかったんですが。先生のような若手の作家さん達をどうにか救済(きゅうさい)したい、と」「私みたいな、っていうと?」 彼の言葉の裏には、「不遇な」という形容詞(?)が隠れている気がするけれど。「書店で働いてらっしゃる巻田先生ならご存じでしょうけど、今の〈ガーネット〉ではベテランの作家さん方が台頭(たいとう)してますよね? 書店での著書の扱いにも、それは顕(あらわ)れています」「ええ、確かにそうですね」 それは私も感じていた。いつも平積みにされているのはベテランの先生の作品がほとんどで、私みたいな若手の作品はメディアミックスでもされない限り、棚に数冊並べばいい方だ。「でもそれだと、せっかく頑張ってデビューされた若手の作家さん方の努力が報(むく)われませんし、モチベーションも下がってしまう。『いい作品(モノ)を書きたい』という意欲は、若手もベテランも同じはずですよね」「もちろんそうです」 〝売れたい〟 〝有名になりたい〟という気持ちもないわけじゃないけれど、まずは一作でも多くいい作品を執筆して、自分のファンに届けることが大前提だ。「それを打開するためには、新しいレーベルを作ってそこで若手の先生方に活躍して頂くのが一番いいと思い立ったんです」 彼はそこで一旦話を区切り、コーヒーブレイクを挟(はさ)んでからまた話し始めた。「コンセプトは〈ガーネット〉とほぼ同じですが、やや恋愛ジャンルに特化したレーベルになります。もちろん、他のジャンルの作品も刊行します」 恋愛小説に特化したレーベルか。――なんか、私のために作ったレーベルっぽいけど、まさかね……。「――あの、私以外にはどんな作家さんが活動される予定なんですか? 琴音先生は?」 〝若手〟というなら、まだ三十歳そこそこの彼女だってそこにカテゴライズされてもおかしくないはず。
「はい。西原先生も参加されるそうです。僕がお声がけしたら、『ナミちゃんが参加するならあたしも!』って。彼女の担当者もこちらに異動するそうです」「担当の人が異動するってことは、琴音先生はもう〈ガーネット〉からは本出して頂けなくなるってことですか?」 ……いや待てよ? それを言ったら私もそうじゃないか。担当の原口さんが〈パルフェ文庫〉の編集長になるんだから。「――ってことは私も? じゃあ、今まで〈ガーネット〉から出して頂いてた作品の版権(はんけん)とか、重版ってどうなるんですか?」「そうですね……。残念ながら、巻田先生も西原先生も、今後〈ガーネット〉からの刊行はできなくなります。ですが、作品の版権は新レーベルに引き継がれることになってますので、重版ではなく〈パルフェ文庫〉から新たに刊行、という形になります」「なるほど……、そうなんですね。分かりました」 私の作家としての原点である〈ガーネット文庫〉からもう本を出してもらえないのは淋しいけれど、私の作品が世の中から消えるわけじゃないんだと分かってホッとした。 たとえ活動の場が変わっても、私はこの先も作家でいられるんだ。私の夢は、まだ終わらないんだ!「――というわけで、先生。レーベルは変わりますが、今後ともよろしくお願いします。編集長としてはまだ若いですし、頼りないかもしれませんが……」 原口さんが改まった態度で、謙遜しながら私にペコリと頭を下げた。「いえいえ! こちらこそ、これからもお手を煩わせると思いますけど……。とりあえずエッセイのお仕事、頑張ってやらせて頂きます!」 私もペコリで返す。 食べかけのパフェは、もうだいぶアイスが溶けてきている。――そんな私のパフェグラスに注(そそ)がれた、原口さんの熱視線に私は気づいた。「うまそうですね、それ」 視線が合うと、ニッコリ笑われた。食べたいならもっと早く言えばいいのに。というか、チーズケーキを平らげたのにまだ食べるんかい! ……というツッコミはどうにか堪えた。「…………え? 私のスプーンでよかったら一口食べますか? だいぶ溶けちゃってますけど」 私が使っていたパフェ用のスプーンを差し出そうとすると、彼はわざわざコーヒーについていた未使用のスプーン(そういえばブラックで飲んでたっけ)を伸ばしてきてアイスをすくい、口元に運んだ。 ――ああ、間接
* * * *「――ごちそうさま。そろそろ出ましょうか」 伝票を手に席を立ち、会計を済ませようと私がお財布(サイフ)を取り出すと――。「あ、先生。ここは僕が」 原口さんもお財布を出して、支払いを申し出た。作家である私にお金を出させるのは忍(しの)びないらしい。「いいのいいの! ここは私が払います。誘ったの私ですから、ね?」 割り勘(カン)、という手もあったけど、それは私がイヤなのだ。――好きな人に気を遣わせるのが。「……分かりました。先生、ごちそうさまです」 原口さんは私の気持ちを汲んでくれたらしく、素直にお財布を引っ込めた。「――マンションまで送らせて下さい」 喫茶店を出ると、原口さんがそんな申し出をした。「えっ? いいですよ! すぐそこなのに」「僕がそうしたいんです。さっきごちそうになったんで。――お願いします」 彼は意外と頑固だ。〝お願い〟までされたら、私も「イヤ」とは言いにくい。……イヤじゃないし。「しょうがないなあ……。いいですよ」 ――というわけで、私は彼に送ってもらうことにした。「そういえば原口さん。最近私にあんまりイヤミとか言わなくなりましたよね」 私はごく自然に、世間話のつもりでそう言った。「えっ、言ってほしいんですか? もしかして先生って……、実はドMですか?」「ちっ、違いますよっ!」 私は顔を真っ赤にして否定したけれど、完全に否定できたかどうかは分からない。 そういえば、今まではっきり指摘されたことがなかったから自覚はなかったけど。……私って本当にドMだったりするかも?「――あ、着きました。本当にすぐですね」 五分も経たないうちに、私の住むマンションに到着してしまった。「それじゃ、原稿用紙は明日にでもお持ちしますね。僕はこれで失礼します。――先生、お疲れさまでした」「はい。送ってくれてありがとうございました」 原口さんの背中を見送ってから、私はマンションの階段を上がった。二階の部屋に着く頃にはいつもクタクタなのに、今日はいつになく清々(すがすが)しい気持ちで、足取りも心なしか軽かった。「ただーいま」 鍵を開けると玄関でスニーカーを脱ぎ、誰もいない室内(一人暮らしなんだから当たり前だ)に一声かける。――これは潤が入り浸っていた頃に身についてしまったクセというか、習慣というか。 いつ
『――はい、巻田です』「もしもし、お母さん? 奈美だけど」『ああ、奈美?』 母の声はいつも優しい。作家デビューが決まった私が「家を出る」と言った時も、母は「そう。頑張りなさい」って背中を押してくれた。私の一人暮らしにあまりいい顔をしなかった父を説得してくれたのも、母だった。『元気にしてる? お仕事はどう? ちゃんとゴハンは食べてるの?』「うん、元気だよ。ちゃんと自炊してるし、作家の仕事もバイトも大変だけど楽しいよ。毎日すっごく充実してる」 毎日楽しくて充実しているのは、きっと今恋をしているからだ。――いつか母にも話せるといいな。『そう、よかった。――お父さんがね、今月出た奈美の新作、予約してまで買ってきて。今じゃすっかりハマってるのよ』「へえ……」 父も丸くなったもんだ。昔はあれだけ「夢だけじゃ食べていけないぞ」とか言ってたくせに。でも正直、そんな父の変化が私は嬉しかった。『――ところで、今日はどうしたの? 電話くれるなんて珍しいじゃない。何か困ってることでもあるの?』 母が不思議そうに訊いてきた。「えー? そんなことないでしょ? コマメに連絡はしてるじゃん」『メールとかメッセージではね。でも、電話はたまにしかくれないじゃない』「あー……、そうかも」 母の指摘はごもっともだった。困った時だけ電話して、あとはメールやLINEばっかり。これじゃ言われても仕方ない。「あー、いや。別に困ってはいないんだけどね。――あのさ、お母さん。今度の土曜日、久しぶりにそっちに帰っていい? あたしバイト休みなんだけど」『いいけど。どうして?』 私が実家に帰りたがるなんてめったにないことだから、母はむしろそっちの方が心配なんじゃないだろうか。「えっと、あたし今日新しいお仕事もらったんだけどね、それが初めてのエッセイの執筆で。昔のアルバムとかあったら、それを資料として使いたいな、って」 これは、自分自身の過去への〝取材〟だ。両親以外にも昔の友達とか学校の先生とかにも話を聞こうと思っている。『新しいお仕事って、あんたこないだ新刊出たばっかりじゃなかったの?』「うん、そうなんだけど。色々と事情があって……」 原口さんが私にこの仕事を依頼したのは、蒲生先生に対する意地もあったのかもしれない。――自分が担当している中で一番若い作家の私に、原稿を書き上
『――分かった。いいわよ。今度の土曜日、待ってるから。お父さんも奈美に会いたがってたから、二人で待ってるわね』「うん! ありがとね、お母さん!」 通話を終えると、私はスマホとバッグを手に部屋に入った。 着替えて夕飯(ゆうはん)を済ませたら、久しぶりに電話してみようと思っている友達が一人いる。高校を卒業(で)てから進路が別れ、しばらく会っていないのだ。「――さて、今日の夕飯は何にしよう……」 楽なスウェットの上下に着替えた私は、キッチンで冷蔵庫を開け、中身をチェックし始めた――。 * * * * ――翌朝の出勤前、原口さんがわざわざマンションまで原稿用紙を届けてくれた。 慌(あわ)ただしい時間だし、朝早くに来てもらうのは(色~んな意味で)彼には申し訳ない。来てもらうのは夕方でもよかったけど、原稿用紙は早く受け取った方がモチベーションが上がる。「とりあえず、予備の分も合わせて三百枚お渡ししておきます。足りなくなったらまた僕にご連絡下さい」「〝足りなくなる〟ってことはないと思いますけど。私の場合は」 私の場合、確かに〝手書き〟だけど使っているのはシャープペンシル。修正や書き直しの時にも消しゴムで消して書き直せるので、〝間違えたら丸めてポイッ〟はないと思う。「まあ、僕もそう思いますけど念のため。余(あま)った分は次の作品の執筆にも使えますから」「そうですね。ありがとうございます。じゃあ、執筆頑張ります!」 私は作家の〝生命(いのち)〟ともいえる三百枚の原稿用紙を受け取り、これから洛陽社に出勤するという原口さんを玄関先で見送った。 一枚一枚に「巻田ナミ」と名前が入っている洛陽社の原稿用紙は、私の作家としての誇(ほこ)りだ。私専用の、他の人は使うことを許(ゆる)されない原稿用紙だから。 * * * * ――その日から土曜日までの数日間、私はバイトに励みながらエッセイの内容について構想(こうそう)を練(ね)り始めた。 書きたいことは山ほどあるけど、それを原稿用紙二百五十枚(十万字)の中に収める必要があるのだ。 何より、この仕事は新レーベル〈パルフェ文庫〉の編集長となる原口さんのスタートを飾(かざ)る仕事だから、そういう意味でも絶対にいい作品(モノ)を書き上げたい。そう思うのは、もちろん物書きとしてのプライドもあるけれど、彼への恋心が
「――やっぱり、私の生(お)い立ちとか作家デビューまでの経緯は書くべきだよね。あとは恋愛遍歴(へんれき)と、私がいつもどんな風に原稿を書いてるか……かな」 書きたいことの大まかなテーマを、呟きながらプロット用のノートに箇条(かじょう)書きでメモっていく。ここからさらに取材を重ね、プロットを作るのだ。 原口さんに電話で「どんなことを書けばいいですか?」と訊いたら、彼の答えはこうだった。『内容は先生にお任せしますので、お好きに書いて下さい。……ああでも、一応恋愛モノメインのレーベルなんで、恋愛絡みの内容を入れて下さった方が……』 ―― そう言われても、二十三年間ろくな恋愛をしてこなかった私には、読者が喜んで飛びつくようなトピックスがほとんどない。 となると、読者の興味を引く内容は筆者である私自身の私生活や創作にまつわるエピソード……だろうか。 私がシャープペンシルで執筆していることは、実は読者さん達にはあまり知られていない(由佳ちゃんみたいに個人的に親しい間(あいだ)柄(がら)の人は知っているけれど)。今どきの若者でもある私がこんなアナログ作家だと知ったら、読んでくれた人はビックリするだろうか……?「そうだ!」 そう思った時、このエッセイのタイトルがフッと降(お)りてきた。 見ただけでネタバレになりそうなタイトルだけれど、これ以外にピッタリはまるタイトルはないんじゃないかっていうくらい、内容にマッチしていてしっくりくる。「うん、いい! タイトルはこれに決定」 私は独断(どくだん)だけで決定したばかりのタイトルを、メモ書きのページの冒頭(ぼうとう)に書き込んだ。 本当は原口さんと相談してから決めるべきなのかもしれない。でも、それをしなかった理由は、このエッセイを彼へのメッセージにしようと思っているから。 これを書き上げたら、原口さんに告白しよう。――私はこの仕事を引き受けた時から、そう決心していたのだった。
――土曜日。私は母に電話した通り、墨田(すみだ)区内に建つ実家に帰った。 この家は二階建ての建(た)て売(う)り物件で、そんなに立派じゃないけれどちゃんとした父の持ち家だ。作家デビューするまでの二十年ちょっと、私はこの家で育ち、大学にもこの家から通(かよ)っていた。 そして、洛陽社からの大賞受賞の連絡を受けたのも、この家でだった。「――ただいま、お母さん!」 帰るのは実に数ヶ月ぶりとなる実家の玄関で、私は出迎えてくれた母に笑顔で言った。 前に帰ってきたのは今年のお正月だった。バイト先である〈きよづか書店〉もちょうどお正月休みで、その頃連載の仕事(今月出た新作の一コ前)を抱えていた私は実家に書きかけの原稿を持ち込んで、自分の部屋で仕事をさせてもらっていたっけな。「お帰りなさい、奈美。お父さんなら居間(いま)にいるわよ」「うん。ありがとね」 私は居間に向かう。母は「お茶でも淹れてくるわね」と台所に消えた。 母は四十八歳。今でも現役(げんえき)で高校の国語教師をしている。父は母の二歳年上で、大学時代の先輩後輩らしい。社会に出てから再会して、付き合い始めたんだとか。「――お父さん、ただいま。久しぶりだね」 居間のソファーに座ってTV(テレビ)を観(み)ていた父は、私が声をかけるとリモコンでTVの電源を落とし、嬉しそうに顔を綻(ほころ)ばせた。「お帰り、奈美! 元気そうで何よりだ」「うん、元気だよ。――ごめんね。お休みの日に、しかもこんな朝早くに」 今は朝の九時半。父も本当はもっとゆっくり寝ていたかっただろうに。私のために早く起きてくれたのだとしたら、ちょっと申し訳ない。「いやいや、気にするな。父さんがな、お前が久しぶりに帰ってくるって母さんから聞いて、楽しみで早く起きちまっただけだ」「そうなんだ?」 私もソファーに座った。居間のカーペットの上には、私がお母さんに頼んであったアルバムが山のように積(つ)んである。大小も、厚みもさまざまだ。「――ああ、それな。さっき母さんと二人がかりで家の中ひっくり返して見つけてきたんだ。大変だったぞ」「そっか……、ありがと。感謝します」 父とは、進路を巡(めぐ)って対立したこともあった。でも私は、父を恨(うら)んだことは一度もない。今思えばあれは、娘が心配な親心からだったんだと思えるから。
「原口さんだって、もうちょっと広い部屋の方が落ち着けるでしょ? ベッドだって狭いし」「だったら、ベッドだけシングルからセミダブルに変えたらいいんじゃないですか?」 彼の提案は身もフタもない。せっかく「あなたの部屋の近くに引っ越したい」って言うつもりだったのに。「ここの寝室は狭いから、セミは置けないんです。だからどっちみち引っ越すことになるの。……まあ、狭いベッドの方が、ベッタリくっついていられるから私もいいんですけど」「そっ……、そういう意味で言ったんじゃ………」 ちょっと意味深な視線を送ると、彼は真っ赤になって慌てた。私より恋愛慣れしているわりには、結構ピュアだったりするのだ。「冗談ですって。でも、引っ越すなら赤坂の方の物件がいいな。原口さんのお部屋の近く」「え……」「その時は、お手伝いよろしく☆」「…………はい」 私の方が年下なのに、彼は腰が低いというか、立場が弱いというか……。私に何か頼まれると、「イヤです」とは言いにくいらしい。話し方だって、未だに敬語が抜けないし。 しばらく話し込んでいたら、マグカップに入っていたミルクティーはもうほとんど飲み終えつつあった。私は彼の肩にそっと頭をもたげる。「――あ、そういえば美加が、『いつ結婚式の予約入れてくれるの?』って言ってたんですけど」「美加さんって……、こないだ取材させて頂いたウェディングプランナーのお友達ですか?」
――私と原口さんが代々木のにある私のマンションに着いたのは、それから三十分後のことだった。 ちょっと空(す)いていた電車の中では、二人で隣り合って座席に座ることができた。そこで私達が話していたのは今書いている原稿の進み具合とか、「入った印税をどう使うのか」とか、そんなことだった。「――どうぞ、上がって下さい。コーヒーか何か淹れましょうか?」 私は彼に来客用スリッパを出してから、リビングのソファーにバッグを置いた。「じゃ、紅茶がいいなあ。ミルクティーで」「はーい。私の分も用意するんで、ちょっと待ってて下さいね」 ソファーに腰を下ろした彼のオーダーを聞き、私はキッチンに足を向けた。備え付けの食器棚からマグカップと紅茶のティーバッグを二つずつ出して、水をいっぱいにした電気ケトルのスイッチを押す。 カップのセッティングをしてから、「お茶うけもあった方がいいかな」と思った。――お菓子、何か入ってたっけ? あっ、確かチョコチップクッキーが残っていたはず……。「――お待たせ!」 数分後、私は二人分のミルクティーのマグカップとクッキーの載(の)ったお皿をお盆に載せ、リビングに戻った。「ありがとうございます。……あ、クッキーも? さすが先生、気が利(き)くなあ」 原口さんはお礼を言ってカップを受け取ったけれど。……ん? 「気が利く」ってどういう意味? いつもは気が利かないって遠回しに言っているのか、それとも女性らしい気配りができているっていう褒め言葉なのか……。解釈が難しいところだ。何せ、彼はS入ってるからなあ。「そんなに悩まなくても……。素直な褒め言葉ですから」 首を傾げている私に、苦笑いしながら彼はフォローを入れた。「ああ、そうなんですね。……別に、何かお茶うけがあった方がいいかなーと思っただけです」 ……本当に、私って可愛くない。褒められても素直に喜べなくて、こんな憎まれ口叩いて。「いただきます」 一人しょげている私をよそに、彼はおいしそうにミルクティーをすすり、お皿の上のクッキーをつまむ。下手に慰めようとしないのは、彼なりの優しさなのだろう。今の私には、その方がありがたい。それとも、ただマイペースなだけなのか……。「――それにしても、この部屋って狭いですよね。ぼちぼち引っ越そうかな」「えっ、引っ越すんですか?」 私も紅茶をすすりな
「ね? 可愛げないでしょ?」 私が同意を求めると、彼はそれを力いっぱい否定した。「いえいえ、そんなことないですよ! 先生はご自分で思ってるよりずっと可愛いし、魅力的な女性です」「……はあ、それはどうも」 そのあまりの熱弁ぶりに、私は目を丸くした。彼の私への想いはそんなに強いのかと、改めて気づかされる。「…………すみません、ついアツくなっちゃって。でも、先生は十分(じゅうぶん)女性としての色気はあるのに無防備すぎるんです」「えっ、どんなところが?」 私って自覚なさすぎるんだろうか? それじゃあ、付き合う前から私は気づかないうちに、彼を惑(まど)わせていたかもしれないってこと……?「ある朝原稿を受け取りに行ったら、ショートパンツ姿でナマ足出してるし。酔っ払って泊めてもらった夜には、至近距離(しきんきょり)でシャンプーのいい香りさせてるし。こっちは理性保(たも)つのが大変だったんですから」「うう……っ!」 思い当たるフシがいっぱいありすぎて、私は思わず両手で顔を覆(おお)った。当たり前だけれど、やっぱり原口さん(この人)も成人男性だったんだ。私の悩ましい姿の数々(かずかず)を目にしながら、一人悶絶(もんぜつ)していたなんて。「……手、出そうとは思わなかったんですか?」 恥を忍んで、私は訊いてみる。我慢するくらいなら、いっそ触れてくれればよかったのに。「出せるワケないでしょ? 自分の欲求に任せて手を出したら変質者とおんなじです。そんなマネ、俺はできませんっ!」 鼻息も荒く、原口さんが吠えた。そして、彼が〝俺〟って言うの、久しぶりに聞いた。 どうでもいいけど、ここは駅のホームで周りには人がいっぱいいる。さっきの原口さんのシャウトに驚いた人達が、なんだなんだとこっちを見ているので,私は今かなり恥ずかしい。「……分かりました! っていうか原口さん、声大きいから! エキサイトしすぎ!」 小声でたしなめると、彼はやっと我に返った。「はっ……!? あ……、スミマセン」 恥ずかしさで顔を赤らめ、神妙に縮こまる彼。なんだかおかしかった。私は思わずククッと笑い出してしまう。「……え? なんかおかしいですか?」「ううん、別にっ!」 そう言いながらも完全にツボった私の笑いはなかなか治まらず、私は彼のいない方を向いて声を殺して笑い続けた。彼もムッとするど
「……まあ、いいですけど。明日も仕事休みですし」 明日は日曜日。いわゆる〝会社員〟である原口さんはお休みだ。「ナミ先生は、お仕事は? 書店さんの方の」 彼は担当編集者なので、私の作家としての方の仕事はもちろん把握(はあく)している。今は、ウェディングプランナーとして働いている友達・美加をモデルにした新作の小説を執筆中だ。 でも、もう一つの仕事である〈きよづか書店〉でのバイトのスケジュールまでは訊かない。デートの約束をする時だって、私からしか話さない。「私は明日出勤日ですけど。もし私の出勤時間に起きられなかったら、原口さんは寝てていいですよ。合鍵あるんだし,戸締りだけちゃんとして帰ってくれたらいいですから」「そんなに僕に泊まってってほしいんですか? 先生って今まで、ロクな恋愛してこなかったんですね」 ……出た、久々のS発言! 別に彼にベッタリしたいわけじゃないんだけど……。「そっ……、そんなことは――」「ない」とは言い切れない。しばし自分の頭の中の引き出しをひっくり返し、私はこれまでの自分の恋愛を振り返ってみた。「……うん、確かにそうかも」 情けないことに、彼の指摘は思いっきり的(まと)を射(い)ていた。「原口さんの言う通りかも。今まで私、頑張って恋愛してきた気がするんです。『恋愛小説家なんだから、恋しなきゃ!』って。で、頑張ってロクでもない男につかまって失敗して」「あ……、当たってたんですね。悪気はなかったんです。すみません」「マズい」と思ったのか、彼は慌てて私に謝った。 悪態(あくたい)はついても、悪役にはなりきれない。そこが彼の憎めないところだ。「ううん、別に何とも思ってないですから。……まあ、十代の頃は別として、大人になってからホントに気心知れた相手と付き合ったのは原口さんが初めてかも。私って可愛げないし」 最後はもうほぼ自虐(じぎゃく)ぎみに言って、私は肩をすくめた。「僕はそんなことないと思いますけど……。〝可愛げない〟って、どんなところが?」 原口さんは首を傾げる。「だって、酒豪でしょ? 言いたいことズケズケ言うでしょ? それに甘え下手でしょ? 泣くことだってあんまりないし」 私は思い当たるフシを、指を折りながら挙げていった。酔ってしなだれかかることもない。男の人に甘えることもあまりない。モジモジもあまりしない。
原口さんと交際するようになって、彼の私生活(プライベート)も少しずつ分かってきた。彼は運転免許証を持っていないため、車の運転ができない。通勤にも私のマンションに来る時にも、公共の交通機関を利用しているらしい。 もちろん、私とデートする時にも……。でも今までだって、車を運転できるような男性と交際したことはないので、私はそんなことちっとも気にならない。 そして、彼が一人暮らしをしているマンションは赤坂(あかさか)にある。お部屋は十五階建てマンションの五階にあるけれど、エレベーター付き。 出身は前にも聞いたけれど兵庫県(ひょうごけん)の南東部。でも神戸(こうべ)じゃない。どうりでたまに関西(かんさい)弁がポロっと出るわけだ。彼は大学進学を機に上京して来て、それ以来はなるべく関西弁を使わないように、極力(きょくりょく)標準語で話すようにしていたけど、それでも生まれついたネイティブな話し方は何かの拍子につい出てしまうものらしい。
「まあ……、一応考えときます」 私自身も作家として、もっと広い世界を見てみたい。もっと幅広いジャンルにもチャレンジしてみたい。だから専属作家になろうとは思わない。……でも、まだ原口さん以外の編集者さんと組むのには不安がある。 まだ当分は、今の状態のままでいい。彼はいつも私の意志を尊重してくれるから、ムリに〝専属〟を押しつけるつもりは最初からなかったのだろう。「そうですか。まあ、最終的には先生のご意志に任せるので、ムリに『専属作家になれ』とは言いませんけど」「やっぱりね。あなたならきっとそう言うだろうと思ってました」「〝やっぱり〟って何が?」 自己完結で納得していると,すかさず原口さんからツッコミが入った。「ううん,何でもないです。――もう少ししたら、お店出ましょうか」 私達のお皿の中身は、どちらも残り少ない。コーヒーも飲み干してしまったし、あまり長居してしまうのはお店の迷惑になる。「そうですね……。じゃ、お会計は先生持ちで」「ええ~~!?」 私は形だけのブーイング。でも、これはこの人と付き合い始めてからはいつものことだ。「〝ええ~!?〟って何ですか。印税たくさん入ったんでしょ? 白々(しらじら)しいアピールはやめましょうよ」「……バレたか」 本当は最初から私がご馳走(ちそう)するつもりでいたのだ。冗談で言ったのだと、彼にはバッチリ見抜かれていた。でもこういう時、冷静に的確にツッコんでくれる。そんな彼が私は大好きだ。 ――何やかんやで私が支払いを済ませ、店を出るともう外は暗くなっている。「〝秋の日はつるべ落とし〟って言いますけど、このごろ日が暮れるの早いですねー」「ホントにね。っていうか、今どきの若い人はそんな言い回し使いませんよ。ナミ先生、さすがは作家さんですね」「……どういう意味?」 褒めているのかイヤミで言ったのか分からずに、私がキョトンとしていると。「ボキャブラリーが豊富っていう意味です」 とりあえず褒めているらしいと分かって、嬉しい反面ちょっとカチンときた。「もう! だったらストレートに褒めて下さいよ! ホンっトに素直じゃないんだから」 彼の愛情は分かりづらいから、誤解を招きやすい。でも私だけは、彼の言葉の裏側に潜む優しさをちゃんと理解してあげたいと思う。
「でも最近、自分がやっと一人前の作家になったような気がしてきてます。私自身、本の売れ行きが予想をはるかに超えててビックリしちゃって。こないだ入った印税なんか、ゼロの数が多すぎて『これ、金額間違ってるんじゃない?』って思ったくらい」 運ばれてきたハヤシライスを食べながら、私は嬉しさを隠しきれずにそう言った。この話は大げさではなく、事実である。私の銀行口座の残高(ざんだか)は今、大変なことになっているのだ。万から上のケタが四ケタってどういうこと? ……みたいな。「それだけ印税入ってくるようになったら、もう専業作家になってもいい頃なんじゃないですか? 書くことに専念して」「えっ、専業?」「はい。人気作家になったら、他の出版社さんからも執筆依頼が来るようになります。先生は原稿を手書きするので、そうなると今まで以上に執筆時間を長めに確保する必要が出てきます」「はあ……」 原口さんの言いたいことは分かる。パソコン書きの作家さんなら、いくらでも執筆時間の都合はつけられる。――少なくとも、手書きの作家よりは。「これまで通り働きながら執筆活動を続けようと思ったら、睡眠時間を削(けず)らないといけなくなります。それじゃ先生、最悪の場合は体壊しますよ」 彼氏としても編集者としても、私のことを心配してくれているのは嬉しい。でも……。「それだけ心配してくれてるのはすごくありがたいんですけど。私、バイトは続けていきたいです。友達もいるし、作家と書店員を両立する上での役得もあるし」「先生の気持ちは分からなくもないですけど。無理はしてほしくない――」「大丈夫。執筆時間は何とか都合つけて頑張りますから」 彼の思いやりには感謝したい。でも、ちょっと心配しすぎな彼の言葉を遮って、私は彼を宥(なだ)めた。「そうですか? 分かりました。――この問題の解決策(さく)が、実は一つだけあるんですけど」「解決策って?」 私は食事の手を止め、彼に首を傾げてみせる。「先生に、我が洛陽社の専属作家になってもらうこと、です」 私は〝目からウロコ〟とばかりに目を瞠った。でも、言い出した当人の原口さんはあまり気が進まないようだ。「なるほど。……でも原口さん自身は、あんまり薦(すす)めたくないみたいですね」「はあ。僕としては、〝作家という職業は自由業だ〟と思ってるんで。先生にはいろいろな出
――私(あたし)と原口さんが付き合い始めてから二ヶ月半が過ぎ、季節は秋になった。 今日は土曜日で私のバイトもお休み。というわけで、原口さんと映画デートを楽しんでいる。「――ナミ先生、映画面白(おもしろ)かったですね」 シアターから出るなり、彼はほこほこ顔で観ていた映画の感想を漏らした。「うん。あたし原作も好きなんですけど、映画はまた違う面白さがありましたよね。脚本家さんのウデかなあ」「あと、監督(かんとく)さんの、ね」 私達の会話は、傍(はた)から見れば映画評論家(ひょうろんか)同士の会話みたいに聞こえるだろうか。――まあ、当たらずとも遠からずなのだけれど。 今日私達が観てきた映画は、私も本を出させてもらっていた〈ガーネット文庫〉の先輩作家さん・岸田(きしだ)
「――そうそう、第二号は西原先生が引き受けて下さいましたよ」「そうですか」 琴音先生とは一(ひと)悶着(もんちゃく)あったけど、これからもいいお友達だ。彼女にも新天地でいい仕事をしてほしいと思う。「じゃあ、第三号はまた私に任せてもらえませんか? テーマはもう決めてあるから」 次回作はウェディングプランナーをヒロインにした話。美加を取材した時から決めていたのだ。「いいでしょう。打ち合わせはまた後日改めて。――ただし、できればその服はやめてほしいですけど」「えっ、なんで!? 似合いませんか?」 私は不満を漏らした。これを選んでくれた由佳ちゃんには「可愛いよ」って言われたのに! 原口さんからは不評なの!? ところが、そうじゃなかった。「いえ、よくお似合いですよ。――ただ、他の男性がいる前でそういう刺激的な格好はしてほしくないな、と」「…………はあ。そうですか」 なんか意外。原口さん(この人)にもそんな、〝